u昭和47年12月30日 朝のご理解
御神訓 一、「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。」
一、「信心してみかげのなき時は これぞ不思議なることぞ。」
この2つの御教えは、矢張りこう2つ続けて頂かなければならんように思いますですね。同時に信心者としての厳しい反省と申しましょうかね。限りない改まりが求められる御教えだと思いますね。限りがないここの所を私し共は「絶対信」と申しますかね、神様を言うなら信じて疑わない。と言うよりもそうだね、御教えを信じて疑わないと。御教えを信じて疑わないという、信心をいよいよ確立していかなければいけない。
この所がそのまあ大きいと言やあ大きいけれども、だらっとなって来ると言うか、ゆったりなって来ると言うかね、致しますと、信心の言うなら生き生きとした、信心の喜びと言うか、特別におかげを下さるそのおかげの味わいというものを、解らんじまいで終わらなきゃならない。大きな信心とか小さい信心とかと言った様な事を申しますけれども、ただ生き生きとした霊験も現し得ずして、一通りのことが解ってどういう中にあっても神様のお守りの中にあるのだ。
お恵みの中に生かされて生きておるのだと、と言う様な事だけに、そういう例えば安易な心の中に安住してしまいますとね、生きたものを言うならばこの何と申しましょうかね、その熱っと言う様なものがなくなるです。例えば線香の火でもね、あの紙の裏表がこうやって突き貫かれる。手にこうあてれば「熱っ」というようなもの、火傷するようなものがある。それは何とはなしにね、ぼんやり明るいと言うか、千匹のホタルを集めた所でです、まあそのへんを成程明るくしますけれども少しは。
けれども紙の裏表をです、こう突き貫くと言う事は出来ないでしょうね。私しはそう言う様なものを、親鸞の宗教に見ますですね。所謂真宗仏教真宗ですね。成程それは実に素晴らしい信心の雰囲気というか、素晴らしい事なんです。それは例えば善人ですら助かるのだから、悪人においては尚更助かるんだと言ったような、天地の親神様と言うかね、阿弥陀如来様と言うかその、その頂きとめ方がそういうてあるね、確かに神様はくずの子ほど可愛いと仰せられますね。
けれどもそれは。難儀をしておる悪人である困っておる、困った人達そういう人であればあるほど、ほんとに真の信心をして、おかげを受けてくれればなというのが、その神様の心情なんですよ。例え落ちるこの身は地獄道であっても、裏の本願と言うですか、四十八願とか十八願と言うその願いがある。言うならばそういう落ちるこの身は、十八願のうちと思えば危なげはなしと、もう実に悟りすましたという境地なんですね。ある意味では。けれどもあたくし共は、地獄道に落ちてはいけないのです。
矢張り悪人であってはならないのです。そこでなら私し共は矢張り極楽を願わなきゃならんのです。もう限りなく善人を目指さなければならんのです。あたしはそこん所をここには教えてあると思うですね。最近のあの金光教の偉い方達のお話を聞くと聞くほど、あのただ今申しますようにね、天地の親神様のご恩恵の中にお恵みを頂いて、生かされて生きておるというその時点で有り難い。その有り難い感謝の日暮らしをさせて頂くのだと。もう実にその通りどころではありません。
ですからそこん所がほんとに分からせて頂けばです、「神の大恩を知れば」とこう仰るような、神の大恩を知ればおかげが受けられる。一年勝り代勝りのおかげが受けられるね。けれどもそれがそのぼんやりした、例えば蛍の光のような感じで頂きとめておる天地の親神様というものは、金光大神の、お取次ぎの働きというものをその程度の所で頂いておる。悪人において親と。善人が助かるのだから悪人は尚更助かるんだと。落ちるこの身は、十八願のうちと思えば危なげはないと。
どこへ落ちてもそれが地獄へ落ちても矢張り阿弥陀如来様のお懐の中だから、危なげはない。もう悟り済ましてる感じ。成程これでは生き生きとした、ここで言われる所の霊験に触れる事はでけないと。ほんとに日々をです、霊験の中にはっきり霊験、特別に信心させて頂かなければ頂ける事ではないほどしの日常生活の中からですね。神様のご恩恵の中にあることが、神の大恩のをわからせて頂くというのでなからなければ、大体金光様のご信心的ではないとね。
そこから生まれてくる所のです、言うなら「木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う心持ちになれよ」と言う様な信心にならなければ。そこん所を踏んまえずそこん所を頂かず、所謂この霊験を頂かずしてです、成程話を聞けば聞くほどに、木の切り株に腰を下ろしても、成程お礼を言うべきだと言う事が解っただけじゃつまらん。それは蛍を沢山集めたような信心だと私は思うですね。
そこにはですね、所謂厳しい自己反省というものが、それではなされないです。悪人ですらね、善人ですら助かるのだかから悪人は尚助かるんだ。成程それは神様の心情ではあることは間違いないです。けれども私し共がなら悪人であってよかろう筈がないね。善人を限りなく目指させて頂く、所謂わが心が神に向こうて行く信心を、お道の信心ではさせて頂くのである。そういう日々をですもう不思議で、不思議ではないと。
信心でしておかげを受けるのは不思議ではないと仰せられるけれども、とても不思議と言わなければ、思わなければおられないほどしの有り難い世界に住まわせて頂いて、あたくしは今の親鸞宗の、あの教えのまあ中心でしょうね。善人においてすら助かるのだから、悪人においておやとかね。落ちるこの身は十八願の内と思えば、危なげはないというようようなです。地獄の中とても神様のご恩恵の中にあるのだから安心だという、あたしはそういう安心の信心ではね。
所謂仏教に見る所謂生き生きとした霊験を現すことはできませんね。矢張りそこは思索、お釈迦様の思索から生まれた宗教だと言われておるのは、その辺の所です。金光様のご信心はそうじゃないのですね。霊験を踏んまえて日々霊験を頂いて、そして今どこにあっても神様のお恵みの中なのだと言う事が解る。霊験を踏んまえて愈々その霊験を身に付けて、頂くに付けてです、愈々改まらなければおられないと改まって、限りなく神に向こうて行く信心なんです。
それを矢張り親鸞が説かれたような所に留まっておる事が、その大きな信心であるように言ったり、成程中々スタイルがいいですね。格好がいいですそういう風に言っていけば。そこに生き生きとした、それこそ「熱っ」と言った様なものを感じきらないなりに信心が終わったんじゃあ、それはもう親鸞宗と同じことです。「善し悪しを、捨てて起き上がりこぼしかな」とね。ただ「吾、ただ足るを知る」と、劉庵寺のお手洗いに彫ってある有名な手洗い鉢があります。
「吾ただ足るを知る」とね。それはその人一人だけはです、不平も言わなければ不足もない。ただ今日お粥さん一杯頂けたらもうそれで満足だ。いいや食べられなくても、もうそれで言うならば満足しおるんだとね。仏教では言うならそこを仏教も取分け親鸞宗はそこまでですね。親鸞が言うておられる所は。私し共がね例えばなら久富いさむさん当りの様に、ああして病気ををしておられます。
もうしかも大変難渋な、それにひいては経済の面でも色んな意味で難儀をしておられます。だからそれが有り難いのではなくてですね、そういう状態の中にあっても、はっきりこの事だけは神様の働きと言わなければ、思わなければおられないほどしの霊験を、日々の中に頂いていくから、是もまた神様のご都合である縋って行けば願って行けば必ずおかげになるというね、確信に満ちたあたしは信心生活が出来るんだと。私し共の修行中でもそうでした。願う事は成就しないけれども、もうかけよの方にはです。
もうはっきりと神様の働きを見せて下さる。成程日々はもう本当に、もう金銭はもう欠乏しきっておる。けれどもさあいざご大祭だ、いざご本部参拝だという時には、きっちりはっきりとそこに霊験を見せて下さる。だから私しの信心がもっともっと本当な事にさえなれば、日々こういうおかげが受けられるんだという確信を持って、そういう霊験を踏んまえての難儀。違うでしょうが。皆さんここん所をはっきり頂かなければ駄目だと思うです。まずそこの所をはっきり頂いていけなければ。金光様のご信心は。
それをね最近の金光教の場合、あたしはほんとにそれを思うです。もうあまりにスタイルが良くなり過ぎたです。格好ようなり過ぎた。それで生きた霊験というおかげ話と言った様な事を、こう何かさせまいような働きがあるんです。自分が頂ききらんんもんじゃけん、人まで人が頂きよる話はしょうごとなか。さしょうごとないと言う様な感じがするんです。成程木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ち、だからどういう難儀な中にあってもです、ただそこにお礼を申し上げていかなければならない。
そこに神恩報謝の生活をする事だけが、金光様の信心のすべてのような言い方をする場合が、ようにありますけども、例えば今日のこの御教えなんかでも頂きますとです。「信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」とこう、ここははっきり霊験なんですね。めくらが目が開くちんばが立ち上がるね。もう愈々どう咄嗟の場合であってもです、お願いをさせて頂けば、言うなら金銭なら金銭のお繰り合わせでも頂けるというほどしのはっきりしたものを。
先日大口教会の、安武先生がお礼に出てきた。これはわずかの間本郷が親教会ですからもう必ずここへ寄られる。お参りしてきたけども私しが休んでおりましたから、会えなかった。それからまた何時間後に電話をかけて来て、今から行きますから。丁度竹葉会のあっておる日でした。またやってきた。今晩帰らなきゃならんと言うのだけども、とにかくいっぺん親先生にお会いしたいとこう言うのである。
丁度竹葉会もあっておりましたから、若いお嫁さんたちばっかりの中に入って、まあ色々自分の体験を発表したり、又皆んなの話を聞いてまあ帰りましたけれども、こう言う事を私しに財布を見せてから言うんです。「先生ここに千百円入っとります。今私しの財布の中に」ね。丁度私がお兄さんがそこの基山に布教しております。そこの鳥栖のこっちの方ですね田代の所。だからそこまでそこのそこまで自動車を借ってきて、そこに今日は帰ってそこから、鹿児島の大口までは丁度千百円の汽車賃がいる訳です。
そして2度目の合楽に参拝をさせて頂いてです、「私はこの財布の中のこの千円をね、お初穂に出来れるおかげを頂きたいと思います」とこう言うです。「けれどもそれがでけん所に、自分の信心のまだ足りない事を感じます」と。どういう意味と思うて今日のご理解の所ですね「私が鳥栖まで帰るまでには、必ず千円の金が私の財布の中にまた入るんだという確信が持てていない所に、私の信心のまだ貧しさを感じます」と言うのである。私に財布の中身を見せてそう言うんです。
これで「親先生なら所謂私ならです、恐らくこの千円をお供えなさったでしょう。そしてもし入らんなら歩いてでも帰るという信心をなさったでしょう」ね。折角2度目のお参りをさせて頂いたのであるから、財布の中には千百円あるのだからね。言うなら百円をお賽銭千円をお初穂にできれるような信心を頂きたいと。私しはそれを聞かせて頂きながら、そういう風にして信心を進めていくなら絶対おかげを受けられると思いましたね。「信心してみかげのない時には、これぞ不思議なることぞ」とです。
そこに不思議を感じて、まあだ足りんのだという自分の信心のまあだ修行が足りんのだ、改まりが足りんのだという、そこに焦点を置いてる。もうひとつあたしは有り難いと思った事は、「先生この頃からね、御霊様を一人預かりました」と。あたしはほんとに、その時褒めたかったけれど、褒めちゃいかんと思って褒めませんでしたけれどね。金光様の先生がね、御霊様が預かられるようになったら、もう言うなら一人前です。
天地の親神様が例えばね、ある信者が何か知らんけれども、そのお遺骨を持ってきてから拝んで下さい、ここに預けさせて下さいと言うて、持ってきたとこう。それでもう御霊家の後ろにベニアで自分で、納骨室ちゅうわけではないけど、納骨できる所だけを少し作ってそこにそのお遺骨を治めた。ほんでもう私はもう晩寝ずうしてこたえん。まだこっちは信心の度胸ばできとらんけん、今どん出てきてもらっちゃでけんですよちゅうてから、御霊様拝む時に拝みますと言うてから言ってました。
恐いものだともう実感しよると。御霊様を。また御霊様が預かられると言う事はです、もう神様がそこに力を認めなさったからこそ、そういう働きがありよるとですね。それはどう言う事かと言うと、もうここに千円ぎりしかない。けれども一遍お会いして一言でも何か御教えを頂きたいと。二度目のお参りするのだから、ここでもうひとつお初穂たて、この千円を奉らせてもろうて、財布の中は空になったっちゃよか、これから鳥栖までは、自動車を借りてきておるのであるから。
それまでにはまた帰らせて頂けれる旅費は頂けれる。よしもし頂けん時には、歩いてでも帰らせてもらうと言う位なです、信心がさせて頂きたいと言うておる。だからそういう信心をね、言うなら非常にこのう、金光教の信心はそういう信心じゃないと言った様な言い方をする人達が増えて参りましたです。そこからはです、私は今日の御教えはもう全然、もうこういう信心、御教えを抹殺したような事になるです。
金光様のご信心がね。「落ちるこの身は十八願の内と思えば危なげはない」と言った様な心が開けるだけではだめなんだ。神様のご恩恵の中にあるのだから、木の切り株に腰を下ろしてもお礼を言う様な心持ちという。成程それは穏やかである。けれども私しどもは日々の信心生活の中にもう霊験、所謂みかげというものと、もう述懐しなければおられないほどし。金がなかったら、お繰り合わせを願っとったらこの様なおかげを頂いたとか。日々ほんとに神様のお働きっちゃ不思議でたまらん。
素晴らしいこの様なタイミングの中に、日々生活をさせて頂いておるのであるから、例え言うなら久富さんじゃないけれど、この様な難儀の中にあってもです。有り難いと感じれるしかもそれはです、もう落ちるこの身は地獄道でもちゅうじゃなくて、こっから助けられれるんだと。こっから立ち上がって行けれるんだと、明るいみとおしを持って信心が頂けていくのが、お道の信心であるとね。家内が昨日から、昨日ゆうがたから風邪の具合が悪くて休んでる。
今朝も起きてからえろう奉仕しますから、もうすぐ「そげな寒い寒いって言いながら起きとったってできんから休んどけ」と。と言うて休ませておりますけれども、私しとしては、もう猛反省させて頂いておるのです。何故って言うて今私しは皆さんに、もうそれこそ繰り返し言っておる。だけではないまた繰り返し祈っておる。「体の丈夫」を願っておるね。もう今の金光今の合楽ではです、風邪どんひいたと言うてんなんてんちゅうのは恥ずかしか。あんたがお願いばしよりめたいち。
お願いがまだほんとのことじゃなかろうたいと言われたっちゃ仕方がないような、今は状態ですよね合楽では。私しはほんとに恥ずかしいけれども皆さんに聞いて頂きよっと。自分の半身であるという家内は、風邪引いて寝とると。してもこれほど「体の丈夫」を願っておるとに風邪引くはずはなかと。引く筈はないのに引いておる所に、まあだ祈りが足りないのだな、祈りが弱いのだなと言う事なんです今日のご理解は。
これはほんと金光様、今合楽に参れば風邪も引かれんちゅうてから、風邪引かれんほうがよかっちね。けれどもほんとそこにですね、ほんとに不摂生であることを恥ずかしく思えるくらいな信心を、させてもらわなきゃだめです。毎日それこそ何べん繰り返し願っておるかわからない「体の丈夫」のことをです。そこに風邪を引いたなどということはです、ほんとに恥ずかしいことだと。
先日から、三橋先生が発表しておられますように。このお願いをさせて頂くようになったら、家族中の者が色々な病気をした。そこで初めてですね。初めてわからせ頂いたことは、体の丈夫を願っておるけれども、言わばその祈りの弱いことに気付かせて頂いて、本気で願う気になったら、勿論一家中の者がまたおかげを頂いたけれどもね。と言う様なね、言うなら頂き方、取り組み方。
金光様のご信心はそういうあたしは信心。「信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ」と。「どうぞ体の丈夫をお願いします」と言うておってです、風邪を引いた、腹が痛かったと言うならばです。あんたの体の、あんたの願い方が足りんのだ。ほんとの改まって願いよらんのだ。まあだほんとの熱意のある祈りができていないのだと、そう自分自身言い聞かせ、そう思わなければいけないね。
「みかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」。みかげのあるのは当然のこと、祈っておることが成就しないということは絶対にないんだと、まず、そこに焦点を置いて。そこは生身のことでございますから、風邪も引こう、腹も痛むこともあろうけれどもです。そこは私の信心の不調法、私の信心の足りないところとして、お詫びをしておかげを頂いていくくらいな、こりゃもう人間じゃけんこんくらいのこつは、風邪を引いたり腹痛かったりするとは当たり前と。
いいや、それも有難いちゅうごた頂き方でですね、はいけないと言う事なんです。腹が痛かったっちゃ、頭が痛かったっちゃまあだね、こうやって生きておるというだけでも有り難いけんでちゅうてから言いよったら、蛍の信心ようなです。「熱っ」と言う位な信心はです、そういう場合に猛反省いたしますね。そしてそれをおかげにしなければおかんという働きがですね、感じられるような信心にならなければ、生き生きとしたものは生まれてきません。ただぼんやりした蛍を沢山集めたような信心。
例え地獄の中に落ちておっても、ここもやはり阿弥陀如来様のお懐の中だからと。と例えばそういう思い方で一生終わっていく信心者はどのくらいあるか解らん。地獄道に地獄におんなら、極楽、極楽に這い上がらせてもらうおかげを頂かにゃでけん。私はそのための私は御教えだと。今、ここん所が非常に弱いことになっておるような感じがするです。いろんな偉い先生方のお話を聞いたり読んだり致しますとですね。
そのいうなら有り難い有り難いでも、こみ上げて来る様な有り難いではなくて、ね。只有り難いと言うときゃええと、思ときゃええと言う位な有り難いですから、真に有り難いと思う心でなからなければおかげは伴わないんですね。暑い中にあっても暑さを感じない、寒い中におっても寒さも感じん程しの、有り難いでなからなければおかげには通わない通じないと。そこに私し共の所謂猛反省を促されるた所の、あたしは是御教えだとこう思う。同時に生きた宗教としてのです、是は焦点になる所の御教えだと思う。
金光教は体験の宗教だと、生きた宗教だと言いながらです。ただ漠然とね生かされて生きておる喜びがです。ほんとに込み上げてくる様なほどしのものでも、ただ有り難いとおもとりますじゃね、それこそ善し悪しを捨てて起き上がりこぼしかな的なおかげしか頂かれません。ただ「吾足るを知る」というぐらいのところはできるかもしれません。修行で自分の言うなら不平も言わん不足も言わんというね。
金光様のご信心の御教えによってです、不平も言わんですむ、または不足も言わんですむほどしのおかげを頂いたら、もう絶対のおかげというものは伴うてくるのですね。生きた宗教ということ体験の宗教と。日々がそういう宗教だといわれる金光教のです。そういう私しはここはその焦点になるというかね、ポイントになる所の御教えです。風邪を引いてもですね、はあ、おかげを頂いて有り難いとこう、例えばね、ほんとに有り難いと受けられればいいですよ。
けれどもそこん所をです、私の信心の不調法として詫びていくという信心ですね。腹が痛かったと。是も神様のおかげだというのじゃなくてです。何を食べたけんあたったちゅうごたる、言うなら食べ物んどもケチをつける様な信心では、いつまでたってもおかげは頂かれんです。それは自分の信心信不足。神様を信ずる事の足りないからこそ、こういう事になるのだという頂き方で、信心を進めていくとですね。「信心してみかげのない時はこれぞ不思議なることぞ」と、そこに不思議を感じさせてもらう信心
。日々霊験の中にある事を、有り難いと解らせて頂いて。そういう信心を言うならば、基礎と言うかね、踏んまえてです。そしてねお生かしを頂いておる、言うならお水も有り難ければ空気も有り難い、生きておるちゅうだけでっちゃほんとに勿体ないね。そういう信心を踏んまえて、木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う様な心持ちが生まれてくるならば、それはほんとなもんですね。
そこに生きた宗教のね、値打ちがあるのです。そこを踏んまえずして、ただ木の切り株に腰を下ろしても礼は言う。霊験は頂ききらんでもです。それをただおかげおかげと言うていくだけではです。ならほんとにおかげをおかげと言うていけれる所まで行くためには、この霊験にまず触れなければ、触れてからの有り難いでなからなければほんなもんじゃないと。生きた信心を頂いておるという値打ちはないと。
そういう意味でこの2つのご神訓はです、生きた宗教、生きた信心をいよいよ身に付けていくこれは、お守りのようなもんだと。それを繰り返し繰り返しけいこさせて頂いておるとです。言うなら百発百中おかげの頂けるような信心が、頂けてくるようになるのですね。だから稽古中ですから、なら今風邪を引いてもいいのです、今腹が痛かってもいいのですけいこ中ですからね。
これは言うなら私し共もそう。けれどもそれはです、言うなら是は自分のまあだそこに信心の足りない所がです、所謂そこに不思議を感ずる。「おかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。みかげのない時はこれぞ不思議なることぞ」と。こういう病気をした。これは不思議なことじゃある。どこにこういう病気をしなければならない元があるのかと、それを追求していくと言う事は、愈々改まりにも改まっていく、愈々修行も本格的な修行にならせて頂くと言う所からですね、霊験を現して行く事が出来る。
5と5と足せば10になるね。それに4にしかならん3にしかならんとするならです、これは自分の計算違いとして、もう少し算数の稽古をさせて貰わなければならないということなんですね。計算してからね、5と5と足して8にしかならん9にしかならんでっちゃね、それも神様のおかげと言っていくようなことではです、あたくしは親鸞宗的なことで終わってしまう。いかにもそれはですね、万人にむくう話なんです。言うなら、一般にうける話なんですね。
いかにもそれはなかなか格好がいいです。けれども本当は5と5と足したら10になるという答えを出していくと言う事こそがです。信心の生きた信心の世界で言うおかげなんです。そのおかげを頂いてからです。その向こうにある有り難いというものに触れていかなければ生きた宗教の値打ちはない。この2つの御教えは、ほんとにそういうもう、今の金光教ではね、この2つの所がなされてこんなに例えば不思議なる事ぞと仰る所に不思議を感じんでおるような感じが致しますね。
どうぞ。